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原木しいたけ

奈良県吉野郡吉野町
新鮮しいたけ おかもと
岡本隆志さん
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風景写真
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山に入り、天然のしいたけを採っていた時代があった。やがて江戸期以降、原木を使った人工栽培が広まり、生産量は飛躍的に増えていく。昭和10年には、現在につながる純粋培養による種菌摂取法が 生まれ、さらに生産は拡大。しかし昭和50年代になると菌床栽培が 主流となり、安価な外国産しいたけの輸入も追い打ちをかけ、原木 しいたけの生産は静かに下降を続けた。そんな中でも、奈良・吉野 の地で原木にこだわり続ける生産者がいる。「新鮮しいたけ おかもと」 岡本隆志さんだ。彼が守り続ける“吉野のしいたけ”の物語を伺った。

岡本隆志さん

約60年前に祖母がはじめたしいたけ栽培、吉野 の気候風土との相性が良くそのまま家業に。隆志さんは3代目として日々山としいたけに向き合っている。

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岡本さんの農園では露地とハウスを使い分けながら、年間通して安定供給できる体制を構築。
今では原木を触っただけで、その状態が分かるのだそう。

吉野の森で木と共に生きる。

京都から奈良・吉野へ戻り、家業を継ぐ

吉野杉や吉野檜で知られる奈良県吉野郡吉野町。岡本家もまた代々林業を営み、約50ヘクタールの山林を所有し、杉材の磨き丸太を出荷してきた。その傍らで、約60年前、祖母が内職のように始めたのが原木しいたけ栽培だった。父がそれを受け継いだものの、吉野の林業は少しずつ活気を失い、現金化の早いしいたけ栽培へと家業の重心は移っていった。ハウスを建て、規模を広げる一方で、林業の収入はほとんど途絶えてしまったという。長男は森林組合へ就職、次男は美容室を経営し、家業を継ぐ者はいなかった。三男の隆志さんも京都で大学に進み、そのまま信用金庫に就職したが、心の奥には〝モノづくりへの憧れ〟があり、同窓会などをきっかけに、地元へ戻りたい思いが静かにふくらんでいった。そして「吉野に帰ろう」と決意し、家業を継ぐことになる。

原木にこだわる理由

今、市場に並ぶしいたけの九割以上は菌床栽培だ。原木しいたけは、そのわずかな隙間に身を寄せている。では、なぜ原木なのか。そう尋ねると、隆志さんは照れたように、けれど確信を帯びた笑顔で言った。「美味しいんです」 原木は重く、運び積み上げる作業は一万本以上。夏は暑く、冬はしんしんと冷える中で、すべての作業を一人でこなす。手間も時間もかかり、決して割の良い商売ではない。それでも原木しいたけを選んでくれる人がいる。「ただ作るだけではなく、良さをちゃんと伝えていくことも自分の仕事だと思っています。後世に引き継がれるかどうかは次の世代の判断ですが、僕はこの歴史ある栽培方法を守りたい」そう話す表情は、山の空気のように澄んでいる。「子どもって、しいたけが苦手な子が多いんです。でも、うちのしいたけを食べると、十人中六人〝好き〟に変わる。子どもは正直ですね」その言葉のあとに浮かんだ笑顔が、原木しいたけ"味"を物語っていた。

吉野林業としいたけの未来

菌床しいたけが当たり前になり、原木しいたけは出会うことすら難しくなった。さらに、えのき、しめじ、舞茸、エリンギ…市場には多彩なキノコが並び、選択肢は増え続けている。その中で原木しいたけを選んでもらうには、発信が欠かせないと隆志さんは言う。かつて林業で栄えた吉野。木々に囲まれた土地でありながら、原木は九州・大分など遠方から運び込まれる。その光景はどこか皮肉であり、どこか現代の林業の姿を映し出しているようだ。それでも吉野の人々は、脈々と続く"木と共に生きる文化"を手放さない。形を変えながら、また次の一歩を刻んでいる。

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Ingredients and Producers

食材と生産者の紹介

奈良の食は、千三百年を超える歴史と、山・水・森に抱かれた豊かな自然の中で、静かに、確かに育まれてきました。味間いも、ばあく豚、吉野本葛、原木椎茸、日本酒 ―ご紹介する食の一つひとつには、気候風土を読み解き、自然や命と対話しながら手をかけ続けてきた作り手の哲学と誇りがあります。 本記事では、奈良の食が生み出される背景、そして生産者の声を丁寧に紡ぎました。奈良の食の物語と、プロのシェフたちが生み出す一皿によって、皆さまの食卓が笑顔あふれるものになりますように。