奈良県宇陀市の松山地区は、かつて伊勢や熊野へ向かう街道の要衝 として栄えた場所だ。その一角に静かに店を構えるのが、森野吉野 葛本舗である。特別に飾り立てるわけではないが、長く地域に根付き、 確かな存在感を放つ老舗だ。この店がつくる「吉野本葛」には、ど こか落ち着いた印象がある。それは現代の時間の流れとは少し異な る、ゆっくりと積み重ねられた手仕事が背景にあるからだろう。
森野藤助さん
大学卒業後に食品卸会社勤務を経て、1999年に 19代目の父の後継者として家業へ。2005年に20 代目当主として社長に就任し、吉野本葛の伝統 を受け継ぐ。
吉野本葛の品質を支えるのは、地下80mからくみ上げる宇陀の良質な水と、
自生する葛の根。伝統的な製法でくず粉ができるまで4か月ほどかかる。
ゆっくりと磨かれてきた技と吉野本葛
450年の手仕事と吉野晒し
森野家の歴史は、450年以上前にさかのぼり、葛という素材と向き合いながら代々技を受け継いできた。掘り上げられた葛根から良質なものを丁寧に選び抜き、砕き、繊維がほぐされる。冬の空気を孕んだ葛根は、柔らかな香りを漂わせ、土のぬくもりを思い出させる。冬の冷たく清らかな地下水を使用し、不純物を取り除くために何度も水を替え、澱粉を精製する伝統製法を「吉野晒し」と呼ぶ。職人は澱粉が沈むのを、まるで生き物の鼓動を聴くように待つ。上澄みが澄むたびに水を替え、攪拌をし、また待つ。この静かな時間が、吉野本葛の真髄を形作るのである。こうして得られる葛粉は、原料のほんのわずか。大量生産にはほど遠く、ただ「正しいものだけをつくろう」という意志が宿る。だからこそ、本葛には雑味がなく、熱を入れると真珠のような光沢をまとい、冷めてもなお、しなやかさを失わない。料理のとろみづけや和菓子づくり、葛湯としても親しまれ、派手さはなくとも確かな味わいがあるのが、森野吉野葛本舗の特徴である。
森野旧薬園と、葛のやさしい時間
森野家が代々守ってきた森野旧薬園も、この店を語る上で欠かせない。約250種類もの薬草が植えられ、江戸時代から続く貴重な薬草園だ。整えられた園内を歩くと、植物に寄り添いながら暮らしてきた人々の知恵が、今も静かに息づいていることを感じられる。華やかな観光地というより、地域の暮らしに溶け込んだ落ち着いた空間で、訪れる人にゆったりとした時間を与えてくれる。直営の「葛の館」では本葛の歴史や製法を学ぶことができ、甘味処「葛味庵」では葛きりや葛もちを味わえる。注文を受けてからつくられる葛きりは、氷水にくぐらせると透明感が増し、口に含むと心地よい弾力と、淡く優しい風味が広がる。素朴ながらも、素材の魅力をそのまま感じられる味わいだ。
土地の歴史と日本の美意識を伝える
特別な演出があるわけではないが、訪れた人が自然と落ち着いた気持ちになる空気がある。吉野本葛の奥行きある風味や滋味深さとともに、土地の歴史や人の営み、そして日本が大切にしてきた美意識まで、静かに伝わってくる。森野吉野葛本舗は、ただ葛をつくる店ではなく、時間と手仕事を重ねて育まれた文化そのものを届ける場所である。